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​速水守久

?~1615

甲斐守

一人称は私。誰に対しても敬語で話す。

当初は浅井家に仕えていたが、後に茶々の家臣として豊臣秀吉に仕えた秀吉の下で黄母衣衆となり、慶長・文禄の役の際には肥前名護屋城本丸広間番衆六番組頭を務め、平時は秀吉の身辺警護を務めた。秀吉死後は旗本部隊の中核である七手組筆頭兼検地奉行として活躍した。

片桐且元を慕っており、且元が方広寺鐘銘事件で疑われた際はその調停に駆けずり回った。

​大坂冬の陣、夏の陣では上杉景勝や藤堂高虎らを相手に奮戦し、その武勇を示した。

千姫の教育係も務め、大坂城が落城した際には千姫を徳川屋敷に送り届け、自身は秀頼、淀殿とともに大坂城の炎の中に殉死した。

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